発明をした者の責任

社会に貢献する良い発明を考えたときに、こういう考え方をする人がいます。

「すごい発明をしたけれども、誰にでも自由に使って欲しいから、特許は取らないよ」

こういう人は、欲の無い、とても高潔な人に思われるかも知れません。

しかし、ほんとにそうでしょうか?

わたしは、ちょっと違うと思うのです。

敢えて言います。

新しくて良いものを開発した者は、
「知財権を設定して、公共の利益のため普及を促し、かつ、絶えず良いものへ改良して行かねばならない」
という責任を負う、と思います

この責任を全うしてこそ、真の社会貢献だと思うのです。

極端に言えば、発明をすれば、特許を取る責任があり、特許を取らないというのは無責任だということです。
少なくとも、特許を出願して、特許を取る努力をして欲しいと思うのです。

言いすぎでしょうか?

なぜ、こう思うのかを説明してみます。

新しくて良いものが開発されると、必ず、その外見だけを真似た質の悪いものが出てきます。
たとえば、「泥水を飲料水に簡単に変えることができる濾過器」を開発したとしましょう。
これが販売されてヒットすると、必ず、似た粗悪品が安く出回るでしょう。
そうすると、その質の悪いものであることを知らないで利用してしまった消費者は、
「なんだ、この製品って大したものではないじゃないか。使ってみてがっかりしたよ」
「利用して、逆に不利益を蒙ったよ」とか、
ひどくなると「健康上の被害が出た」とか、
本家本元の良さを知らずして、その製品の評価を下してしまいます。
悪いうわさはたちまち世間を走ります。
結果、多大の投資をして質を維持している本家本元の客がいなくなり、売上にも影響を及ぼします。

こうなってしまった原因は、誰にあるのでしょうか?
品質の悪いものを無断で作って売った者でしょうか?
悪質な粗悪品ならばそれもあるかも知れないですが、良いものを安く提供しようと頑張って作ったものだとしたらどうでしょうか?
既存の製品よりも安くお客に提供しようとすることは悪いことではありません。
衣料品だって、食材だって、電化製品だって、より安く消費者に提供するために、どこの企業も努力しています。
消費者にとって、安くて良いものが手に入ることは、社会にとっても良いことです。

問題は何でしょうか?

問題は、良い製品を見よう見まねで作った結果、本家より質が悪かった場合です。
悪意があったのなら、それは責められるべきですが、悪意がなかったのなら、一概に責めることもできません。

では、誰に責任があったのでしょうか?
最初にその製品を開発した者が、責任を持って、きちんと管理すべきだったのではないでしょうか?
最初の開発者が、きちんと粗悪品が出回らないように管理すれば良かったのではないでしょうか?

最初の開発者が、きちんと製作できる者のみに対して、その製作を許すようにしていれば、消費者は、良質のものを常に手に入れることができます。
最初の開発者は、その管理料として、その製品を作って販売したい者からロイヤリティーを取れば良いのです。
ロイヤリティーの額が妥当ならば、喜んで支払う者が現れます。
最初の開発者は、このようなシステムを作る責任があります。
特許権などの知的財産権を利用すれば、このシステムを構築することができます。

新しくかつ良いものを開発した者は、きちんと知的財産権を取得し、悪質なものが世に出回らないように監視し、それを作って売りたいという者
に対しては、妥当な使用料を支払って貰って、たくさん製造して販売して普及してもらう。
当然、最初の開発者は、自由にその新製品を利用できる特権があるのいだから、それに甘んじることなく、さらに改良して、その恩恵が万人に行き渡るように努めるべきです。
特許制度は、発明をした者に特許を受ける権利があるとしています。この権利は譲渡することができるのですが、譲渡を受けずに、他人の発明を聞いて、勝手に特許出願した場合は、特許権が成立したとしても無効の権利となります。
したがって、あるアイデアに特許権を設定できる者は、最初に開発した者のみであり、その者が設定し忘れ、世に公開してしまうと、誰も
そのアイデアに権利を設定することができなくなります。

特許権が設定されていないアイデアは、誰もが自由に使用できます。
一見、良さそうなのですが、実はそうではないのです。
上述したように、良い製品の外見だけ真似して消費者を欺くような、悪質な製品が世に出回るのを許すことになります。
健康上の被害が出るほど悪質なら取り締まれるが、表面化しにくい物なら取り締まれません。
消費者は、良品の恩恵に預かれなくなります

例えば、開拓時代の土地を考えてみます。
人々が住みやすそうな土地、畑になりそうな土地を見つけたとします。
きちんと区画して土地に権利が設定できるようにしておけば、その土地を特定の人が管理することができます。
売買したり、その土地の使用料を払って畑にしたり、建物を建てたりすることができます。
土地の使用者は、快適な暮らしのため、あるいは、快適に使用して貰うために良い環境の維持に努めます。
土地は有効に利用され、多くの人が恩恵を得ることができます。

しかし、何ら権利が設定されず、誰にも管理できない状態になると、どうでしょうか?
いずれ荒れ果てるのは明らかです。

誰にも管理したり所有したりする権利がないということは、誰でも自由に利用できるということで、一見、聞こえはいいが、それでは、質は保たれません。

町の公園は、誰もが自由に使って良いことになっています。
市が管理しているからある程度きれいですが、管理されなければ、荒れ果てることは容易に想像がつきます。
公共トイレとお店のトイレはどっちがきれいで清潔ですか?

ディズニーランドは、町の公園と違って無料ではありません。入場料をとっています。
その入場料で、ディスにーランドは、きれいな環境を維持しています。
お客は、おかげでその恩恵に預かることができます。
ディズニーランドの入場料を高いという人もいるでしょうが、入場者にとっては、「夢と魔法の国」を体感するための必要経費であり、妥当な「使用料」ということができます。

もう一度、繰り返します。
新しいものを開発した者は、知的財産を取得して、悪質なものが世に出回らないように監視する責任があります。

アイデアを世に公開するということは、荒野に新たな土地を切り開いたことと考えれば良いです。

管理できるようにきちんと区画して権利を設定できるようにしておくこと。

今回は、知的財産権を取得する社会的意義についてでした。

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