模倣品、偽物、ぱちもん、ばったもん。

知財の世界では「真似は悪いことである」と報道されることが多いです。
真っ先に浮かぶのは、中国の悪質な模倣品や偽物のイメージです。
模倣といえば、オリジナルを踏みにいじる絶対悪という扱いです。

しかし、人間の行動全体からみると、真似がうまいことは、良いこととされる場合の方が多い気がします。

あなたは子どもの頃、ひたすら親のすることを真似たはずです。
先生の言う通りにすることに必死になった時期があったはずです。

「文字は見本をなぞって練習しなさい」、
「歌はこう歌いなさい」、
「粘土でこういう動物を作りなさい」、
「算数はこうして問題を解きなさい」、
「良くできるお友達を見習いなさい」などなど。

そしてうまく真似ができると、そのたびに
「すごいね~」と褒められたはずです。

先人達の行動を真似る行動は、たいていの場合、褒められます。

数学の公式は、自分で編み出すのは大変です。
ピタゴラスの定理とか、円周率とか。
誰かが考え出したものを、真似して使っています。
掛け算の九九を覚えておいた方が良いというのは、先人の知恵です。
一生懸命覚えましたね。
微分積分は必要なくても、九九が言えないと生活するのは苦労しそうです。

空手や柔道などの武道でも、茶道でも、花道でも、歌舞伎でも、「型(形)」という概念があります。
先人達が究めた動作の「型」を覚えることから始まります。
「型」を身に付けていないのに、突飛なことをすれば、単なる「型破り」であり、嘲笑もんです。
「型」をきちんとできる歌舞伎役者が、少しオリジナリティを出して「型」から「外す」から素晴らしいのです。
「型」というのは、先人達が色々試した挙句の集大成なので、根拠があったり、効率的だったりするものです。

「守破離」という言葉もあります。
剣道や茶道などで、修業における段階を示す言葉です。
「守」は、師や流派の教え、型、技を忠実に守り、確実に身につける段階。
「破」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ、心技を発展させる段階。
「離」は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階。

例(ラーメン作り)
 守:ラーメンをレシピ通りに作ることができる。
 破:ラーメン(守の段階で作ることができるようになったラーメン)のスープや麺、具材等をよりおいしくアレンジすることができる。レシピもより作りやすいようにアレンジすることができる。
 離:ラーメン店を開業し、オリジナルのラーメンを作ることができる。あるいは、ラーメンから進化した新たな料理を作ることができる。
<Wikipediaより>

かならず真似の段階があり、とても大切とされています。

仕事をする上でも真似する能力が高い人ほど、即戦力になります。

例えば、新入社員は覚えることがたくさんあります。
その覚えることは、その会社がこれまでのやってきたことであり、先輩社員の行動そのものです。
それをそっくり真似できれば「あいつは呑み込みが早い、できるやつだ」ということになります。

例えば、ファミレスの配膳のアルバイト。
先輩の真似をして直ぐに仕事が出来る人は、「優れている」と評価されます。
一方で、 接客業をしたことがないのに、すぐに完璧な接客ができる人もいます。
こういう人は先輩を見て真似する期間がないのに、なぜ直ぐにできるのでしょうか?
こういう人は、日頃からレストランの配膳の仕事を良く見ていて、無意識にも、頭の中でシミュレーションをしています。
ですので、どういうときにどういう行動をすれば良いかがすぐに分かるのです。
だから、すぐに先輩アルバイトと同じように行動することができます。

逆に、職場に慣れてもいないのに、先輩社員の真似ができず、自分の価値観で勝手に動こうとする社員は、
「何も分かっていないのに、あぶないことをする使えない社員」ということになります。
「型」もできていないのに「外す」社員です。自分勝手で無能な社員と評価されるでしょう。

このように、一般的には、真似する能力が高いことは、「優れたこと」と受け止められます。

では、知財の世界、たとえば、発明の世界ではどうでしょうか?
発明は技術ですが、技術は過去の技術の累積によって、高度化されていいきます。
真似して、改良して、の繰り返しです。
許される真似は、たくさんして構わないのです。

では、真似は全面的に許されるのでしょうか。
知財の世界ではノーです。
真似を許すと、生み出した人の苦労が報われません。
それでは、発明意欲が落ちてしまいます。
だから、特許権が設定された技術に限って、一定期間(特許は20年)だけ、独占排他権を認めたのです。
その一定期間が過ぎれば、独占状態は解除され、誰でも使える技術になります。

なお、実用新案権の存続期間は最長10年、意匠権は20年です。途中で放棄されれば、誰でも使って良いものになります。

真似が悪とされるのは知財の世界だけです(おそらく)。
知財制度が始まって、それが現実的に機能を果たしてきた、最近100年くらいのことです。
それまでは、人類史上、「先人の行動の真似の蓄積=技術の蓄積」だったと言っても過言ではないでしょう。

そうすると、真似が許されないという世界は、かなり例外的なことですね?

知財の世界は経済的には大きな位置を占めるのは間違いないのですが、人間の行動様式全体からすれば、その世界はかなり限られていると言えます。

創作物に対する知財権(特許権、実用新案権、意匠権、著作権など)は、どんな存在と言えるのでしょうか?
人の生活の殆どの場合において「真似」は良いことと褒められるのに、知財の世界だけは「真似」=「悪」と堂々と主張することが許される。
そう、知財の世界は、極めて例外的な存在と言えるのではないでしょうか?。

さあ、この例外的な制度、せっかく存在するのだから、しっかりと利用しようではないですか。
さあ、発明、発明。